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Jan.13,2018
松井茂《純粋詩》
「グリーンランド」 中谷芙二子+宇吉郎展







 2018年1月13日は日本電子音楽協会の理事会があり東京へ日帰りした。新潟市はまだ雪も多い時だった、加えてその日の早朝は珍しく霧が多く出ていて心動いた。
 午前の理事会後にICCへ行き「坂本龍一 with 高谷史郎|設置音楽2 IS YOUR TIME」へ足を運ぶ。この日は午後からライブ・パフォーマンスが予定されていて、詩人・松井茂さんの《純粋詩》も何らかの形でリアライズ(演奏)されるということだった。
 ICCの展示自体に足を運ぶのは2度目だった。前回はオープンしたばかりの12月10日、今回はその約一ヶ月後ということになる。会場に入りまず感じたのは、どことははっきり分からないものの、何かオープン当初とは違う場の印象だった。ピアノの存在が場に慣れているようにも感じられたのはなぜだろう、少し前に出されていたのだろうか。ラジオの位置は明らかに前方に移動されていて、全体のバランスとしてはまとまりのある方向に配置されているように感じられた。ただ、自分はピアノもラジオも何処か居心地が悪そうだった12月10日のほうに心が動いていた気もした。もしくはこの展示の背後に流れる情報もある程度理解した僕のほうが変わってしまったのかもしれない、一ヶ月足らずで?だとしたら理解が感覚を邪魔している。

 ライブパフォーマンスは複数の奏者が会場内を歩き回る形で演奏された。
坂本龍一《still life》
坂本龍一《ff》
坂本龍一《ff2》
松井茂《純粋詩第11番(2001年9月11日)》
松井茂《純粋詩第687番(2011年3月11日)》

 おそらく僕が、少なくとも鑑賞者として奏者に求めるものは、その場で放たれる音への意識の強さのようなものである。歩きながらの演奏だから、日頃使わない余分な身体の動きのいろいろなものがさらされてしまう。だからなるべくその余計な要素は削ぎ落とされるべきだと思う。呼吸においても同じこと、歩きながらなのだからと演奏中に指示された音以外(軽く咳き込むなど)を気安く出すべきではないと思った。こんな風に書くのは、言葉にすると難しいけれど、あくまで奏者の基本的な心の構えを求める、ということであって、決して咳き込んではいけないということでもない。どういう態度で演奏しているかは、同じ咳でも内面の差として伝わるものだから、気をつけなければいけない、ということなんだろうと思う。
 詩人・松井茂さんの作品中で面白い体験をした。奏者は「1」とか「2」とか「3」の数字(《純粋詩》はそれで成り立っている詩である)を思い思いのテンポで朗読して歩き回るのであるが、あるとき思い立って目を閉じてみた。そうしたらそこには実に立体的な奥行きのある音空間が広がっていた。これはとても豊かな体験だった。視覚情報からよりも、音を通じて空間を「観る」ことのほうが豊かに感じられるなんてことは今まであまり意識してこなかったことでもあるし、この時の感じは忘れられない。


 その後、会場を移して銀座メゾンエルメスで開催されていた「グリーンランド」 中谷芙二子+宇吉郎展に足を運ぶ。この日の早朝に新潟の霧を観てきただけに、どのように鑑賞できるだろうかとも思った。おそらく人が「霧」と呼んでいるものは、それの存在によっていっそう際立って見えてくる何か別の要素なのかもしれない。たぶん、僕はここでも一度目を閉じてみるべきだったのだ。

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 結果的には一日を通して、時間を扱う作品の展示について考えを巡らすことになった。どれも貴重な体験だった。


(Feb.28,2018)