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《変容の対象》2021年総括文


    2022年10月の現在、ようやくこの総括文を書き始め、あらためて1年前のことを思い返している。COVID-19の影響は今でこそ少しずつその緊張感も緩和に向かっているのかもしれないが根本的な解決には至っていない。さらに1年前は現在よりも行動も(自主的に)抑えるべきものであった。自主企画としての発表活動は中止したままの状態が続いているし、節目もなく記憶は曖昧になったままである。明確な苦しみこそ無いとしても、そのような日常は惨憺たるものと言えるのかもしれない。実感としては、ささやかな日常だけがただ過ぎて行くという毎日の積み重ねであり、それをささやかな幸せと言ってしまえばそうなるのかもしれないが、いつの間にか3年が過ぎているという絶望的な感覚は未だに不意に訪れる。

 演奏を実際に行った演奏会に参加したのは3月13日にExperimentalRoomsの星野真人さんが開催したイベントくらいだろうか。その他は配信関係のイベントで演奏を試みたものが2,3あるくらいだったと思うが配信での演奏のほとんどは自宅からのものであり、どれも記憶は曖昧になってしまった。

 そのような日常の中で《変容の対象》は毎月、2名で即興的な作曲を行ってこれたことはほとんど唯一の救いであった。また、IAMASの後期博士課程の研究とも関わり、《変容の対象》をひとつの根拠に他者との共作について遠藤龍さんとは別の形を模索し続け、それを面識のなかった原田和馬さんとのやり取りにも展開させるというようなことも開始された年であった。これほど、日常とは異なる時間軸を持つ、他者との共作の時間というものを強く意識された年はなかったかもしれない。それはそれぞれの相手と共にする共通の記憶となり蓄積されていくものだ。いつの間にか、こうした創作の記憶が日常からすっぽり切り離されてしまった。

 そんなアンバランスな生活の中で、ほとんど唯一音楽的な経験として記憶しているものは11月に行われた濱地潤一さんとの録音会である。場所は岐阜県のIAMASで、前田真二郎さんと濱地潤一さんの間で行われる数日間の録音の機会に、1日だけピアノ奏者として招いてもらった形だった。《変容の対象》の2名がピアノとサクソフォンの即興を行うという事でも自分にとっては意義あるものだと感じたが、事前に濱地潤一さんからも図形楽譜を用いた作曲作品の案が提示されていたので、可能な限り備えて参加する形となった。自分にとっては本当に久しぶりの県外移動だったため、その部分では多少の後ろめたさも感じないわけではなかった。しかし、ここでの演奏の体験は忘れ得ないものとなったことだけは記しておきたい。濱地潤一さんの自由で的確な演奏技術と耳にあらためて驚かされ、即興と作曲の間に位置するような図形楽譜作品の可能性についても多くの意義を感じる経験となった。

 そうした日常がどれだけ反映しているかは分からないが、結果的に《変容の対象》2021年の12曲は、比較的多彩な内容になったように思える。特に終盤の何ヶ月かは録音会に向けての自身の準備や、現地での経験が響くようなアプローチとなって刻まれているのではないかと感じている。


1月:第1小節目冒頭の動機は濱地潤一さんからのもの。テナーサクソフォンの低音に集まる動機にピアノは上手く返答できていない。試行錯誤して4小節目までは同じ方向性を保つが、5小節目からはピアノの音数を減らす方向へシフトした。徐々にピアノとサクソフォンの関係もかみ合ってくるが終曲を迎える。12小節目のピアノは言い訳じみた余韻かもしれない。

2月:冒頭のピアノ動機は福島諭から。ひと月前のピアノの反省からか、リズム・響きが特徴的な動機の提示になっている。それに対する濱地潤一さんからのメロディーは極めて美しいものだったと思う。楽曲は6小節目までで一度飽和し、新たな展開として進み更なる飽和へ向かいながら終止した。この前半と後半の位置づけは難しい。後半部は結果的に前半のバリエーションに納まる形になったが、新たな展開を目指そうとした意思はピアノの6小節目にみられはする。ただ、後半部は冒頭の美しさを超えられてはいない。そのあたりが、この曲が《変容の対象》としては珍しい2部構成でありながら、強い終止感を伴わずに途切れてしまう、と感じる事に関係するのかもしれない。

3月:冒頭の動機は濱地潤一さんから。その分散的なアプローチに対してピアノは音数と減らしたもので対峙する。この月の濱地さんのサクソフォンは吹かれる場所と休む箇所の緩急を意図的に行っているように思う。もしかしたら、1月2月までの流れを汲んで、同じような共倒れの状態を避けようとしているのかもしれない。ピアノはそれに対して中盤から響きの変化などで方向性も提示していく必要があった。それはサクソフォンが吹かれない箇所ではピアノは何かを弾くべきという、構造的な必然と感じていたが、果たしてそれが正解だったのかは分からない。「どちらも何も音を出さない」という選択肢もあったはずだ。

4月:冒頭の動機は福島諭から。《変容の対象》ではもう幾度か登場している響きがここでも登場したというような印象を持つ。中盤での楽曲の展開部分も、また終盤においても場面は変わるが変わった先は何処かで響いた《変容の対象》の一場面を想起させる。なぜこのような起こったのか因果関係はまったく思い出せない。ある種の手癖のようなこのなのかもしれないが、何も生じない惰性というほどの低いレベルでもないので、なおさら不思議である。

5月:濱地潤一さんのテナーサクソフォンによる動機から。福島はまたテナーの低音に上手く反応できていない。結果的にピアノのアプローチはここでも何処か既視感のあるものになっている。最後の突然現れる終止感以外は両者がそれほどかみ合っている気もしない。それぞれに主張をしながら近づき離れ、を繰り返す。前半は休符によるアクセントもある程度は有効に機能したが、ややしつこく感じられた。

6月:冒頭は福島諭の動機から。音数の少ないピアノにソプラノサクソフォンの対旋律も極めて綺麗に美しくのっている。終わり方にも新鮮さがある。ただ、なんであろうかここには初(うぶ)な感じがほとんどない。それは少し残念にも思うが、それとは逆の、少しばかりの洗練は感じる。心からではなく顕微鏡を覗くように音を配置したような俯瞰がある。しかしその態度にはまだ不完全な、ぎこちなさがあるかもしれない。音に対する心からの初(うぶ)ではなく、音が手から離れ既視感を作り出す様子を俯瞰するその姿勢に宿る初々しさはあるかもしれない。

7月:濱地潤一さんからの動機から。テンポも極めてゆっくりであったために、やり取りの回数の割りには長い曲になっている。響きの移ろいも冒頭の探るような親和性から緩やかに不協和へ向かう展開も悪くない。最後は何も残らない地平を見つめるような静けさの中で終曲する。

8月:福島諭の動機から。あえて1小節目の最初に休符を置いたものであったが、濱地潤一さんからの返答ではそこが埋められており、動機の主従が入れ替わるような印象は良い。楽曲全体は珍しく弾んだ形で始まるが、珍しく大きな展開を持つものとなっている。中盤から終盤向かう不安定な下降と上昇はザワザワと騒ぐ夏の風のようでもある。ここには刹那の不安も宿っているのではないか。

9月:濱地潤一さんからの第1小節目の動機は隙間の多い印象的な動機だった。ピアノの返答は何とか動機の世界を損なわずに寄り添ったつもりだ。一方、2小節目の濱地さんからの返答は全て休符というもので、その後も第1小節目の動機が目立ってリフレインする事もなく、自由に展開していく。印象としては第1小節目が全ての呼び水になっており、そこからサクソフォンの音階と沈黙とによって自然と道が促されていくという形に思える。10小節目冒頭で頂点、その後はゆっくりと下降して消えていく。

10月:福島諭の動機から。9月のピアノの印象を受け継ぐような澄んだ集中力を必要とする響きで音域も広い。濱地潤一さんの返答も印象的なフレーズで答えてくれている。ピアノはその後もサクソフォンに影響されながら自由に展開していく。あくまで抑えたピアニッシモの世界が続いていくようでもある。この曲の場合はピアノの音数が増えてもそれに合わせて演奏が熱を帯びるはいけない、というつもりで書いていた。やり取りは長く続いたが、音楽的な停滞は感じない。

11月:濱地潤一さんからの第1動機は音数の極めて少なく、何処にも属さないようなテナーの響きだった。それに対してピアノは比較的軽快な音数を充てている。それほど得意としていないアプローチであるが大きな破綻はなく終えているのかもしれない。しかしここでしか無い響きに到達しているかと問えば、容易く肯定はできない。この月は岐阜で実際に濱地さんと録音を共にする機会があった。その内容とは別に《変容の対象》も続けられたわけだが、現地での親和した演奏の経験とは別にここでは2人の別の世界がぶつかるようなものになっている。ひとつ考えられるのは、私自身がまだテナーの響きを上手く捉えられていないために、それが生きるアプローチを書けていないのではないかとも思う。

12月:福島諭の動機から。しかし、この動機に使われている和音の響きは、11月に岐阜で録音を行った際の、濱地潤一作曲作品に含まれている選択肢の中から選ばれている。実際に意識して配置したはずだ。録音の際に行われた即興を《変容の対象》の規則の上でも行ってみたかったのかもしれない。冒頭以外は自由に展開していく。ここには11月の即興の印象が深く根ざしているものになっているのではないか。




2022年10月18日新潟の自宅書斎にて

福島諭。











《変容の対象》2021年総括文


今はもう2022年の9月28日だ。今頃昨年の《変容の対象》の総括文を書いている。8月28日の岐阜県美術館、IAMAS ARTIST FILE #08福島諭展会期中のコンサート「エレクトリック・ラーガーのための」室内楽第2曲アルトサクソフォン、ソプラノサクソフォンを使った II. サクソフォンと電子音のための における演奏が一つの大きな啓示を自らにもたらしたし、その翌月の9月18日のサラマンカホール に於ける三輪眞弘 福島諭 二人展コンサートに於ける福島諭作曲作品「春、十五葉」そして映像作家・前田真二郎と我々との「日々《変容の対象》Aug 2009-2021」に於けるサクソフォン奏者としての参加は、《変容の対象》の作品の一端の、これら8月のシリーズ作品13曲の演奏者としての理解を、作曲者とは違う演奏者という別の領域からの視点の概念領域を獲得したことはこの作品にとっても大きな財産になった。これら2つの大きな発表は来年の総括文に詳細を譲る(本来ならこんな秋の帳の時期に総括文は書かないから、書かれるはずのない事項なのだ)が、この2021年の総括文にも簡潔に書き留めておきたい。

以下の記述はインスタグラムに当時の写真と共に書いた文章である。共演したピアニストの山内敦子さんにはこの場をかりて感謝の意を捧げたい。

《変容の対象》という共同作曲作品はある種の運動とも言える。二人の作曲者がこういう形で記す楽譜の存在は演奏家が人生でそう目にするものではなく、固有と言っても良いはずだ。少なくとも私はそういった楽譜を見たことはない。一見普通の楽譜に見えるそれは実は二人の作曲者によってそれぞれの時間を謂わば切り取りながら交互に定着させている。そのことは山内さんと福島さんの間のやりとりにも話が出た。私の内部にはそれら演奏と「書かれた」行為、「書かれる前」の概念の構築、それらを反映した現象は書かれる最中にも現れるし、実際に演奏される最中にも現れ、制御可能であるはずのものが制御の箍(たが)が外される時に起こることすらその運動に含まれている。その運動は言うまでもなく「思考」「思索」の概念化の運動であるけれども、私と福島さんの間で長年経験し、積み重ねてきた概念の結節点は案外、それを話さなくても共通の認識を有していることが殆どだ。ピアニストの山内敦子さんはその困難な演奏行為をその確かなART(アートはもともと技術を始点とした言葉だ)で我々に寄り添い、近づく最大限の努力を惜しまなかった。そのしなやかさは類をみないほど崇高に映った。


追記

2021年の11月に前田真二郎さんからの提案で岐阜のイアマスのスタジオで録音を数日行った。可能性のあったものはいくつかあったが最終的に図形楽譜の作品のみを録音することとし、サクソフォン・ソロとピアノとサクソフォンの編成の作品を録音した。ピアノは福島諭さんにお願いすることを前田さんに伝え、福島さんには1日参加してもらうこととなった。前段階で数ヶ月前からそれらの図形楽譜を書いていた当時の自身の着想では《変容の対象》の作曲者二人の演奏がこの図形楽譜の作品を、最初に着手する、に相応しいと思ったことが理由だった。前田さんの録音のエンジニアリングのもと、初日はサクソフォン・ソロの録音のみ演奏し、2日目は福島さん合流のもと予め渡しておいた図形楽譜をもとにピアノとサクソフォンの演奏が録音された。この滞在ではソプラノサックスの調子が思わしくなく、また、テナーも少し不安の残る調整だったのだが、アルトとテナー使用のトラックはほぼ全て採用となるような録音だった。結果として明確な可能性の内実を獲得できた稀有な録音であり、この作品を媒介にして《変容の対象》の作曲者二人の実存的なヴイジョンが立ち上ったという意味に於いても重要な録音作品になった。この作品はいつかまたの日に発表を待ちたい。






1月 動機は濱地。楽器はテナーを選んで書かれている。指示として「32分音符はダブルタンギングで任意でフィンガリングと微妙にずらし音の軋りを挿入することも 想定する」とある。理路整然と演奏するのでは無く、そこにノイズを挟(さしはさ)みながら演奏する意味で書いてあるが、それを一瞬で正確にイメージ出来る奏者はおそらく居ない。書いた自分はわかるが、斯様にサックスの特殊な奏法を指示するのは難しく、変容でもそのことを避けてきたのは、五線譜にうまく反映できないと判断したからだったが、変容のフェーズ2からはそういったものも避けずに挿入していこうといつからか決めたようだ。楽想は実際に自分がテナーでインプロゼーションするものを雛形として書いている。こういった音群は実際に演奏している時のリアルタイムで想起する音の構成に近いが、実際はもっと攻撃的であったり、極度に静謐的であったり、こうはならないけれど発想の起点は同じものだと思う。福島さんの組織は僕の組織の過剰な集積に寄り添うような組織が続き、そのfineへ至る最後の小節は見事で、僕はただそれを見つめていた、、、というような心象で何も書かなかったようにも見える。

2月 動機は福島。4小節目半ばまでの感触は内省的でありながら複雑な何かを留めているようにも思えるし、自分の中にこういった感覚、あるいは領域があったのだな、、、と思えるような組織が続く。これはひとえに福島さんの書く組織の領域に大きく影響を受けている為だと思う。4小節目後半からの自分の組織は果たして良かったのか、、、と一瞬思ったけれど、その後の展開を含め、この分裂的な様相は何か、凄みすら感じるものが表出してあるので納得した。凄みすら、、、と自らを礼賛するようなことを書いたが、これは「誰が書いたかわからない」ような感慨を持つからで、変容ではその、誰が書いたかわからないという「無名性」を意図せず獲得しているようなところもあって、そこがどうにも言語化できないのだけれども、多分二人の異なる作曲者が同時間軸に存在して互いに干渉し合う複雑な運動にはそういったものが表出するようなある結節点が潜んで居て、それが不意に現れるのだろう。分裂的で無名性を伴った作品である、、、という風に書いた本人が思う、という意味でもこの作品は特別な何かを孕んでいるように思われた。

3月 動機は濱地。冒頭から嫌がらせのようなフラジオの連続帯。嫌がらせといえばサティの「ヴェクサシオン」だが、ふと口をついただけで全く関係もない。サックス奏者には拷問のような組織が続く。2月にも誰が書いたかわからないという趣旨の話を書いたけれど、この月もそうだ。趣は違うけれど自分にとっても謎の組織を自分が書いている。音楽には呼応で音と音を結ぶ機能があるが、密やかにそれをやっているのは福島さんの方が圧倒的に多い。自分はもともと一人で演奏したい欲求が強すぎるほど強くその性向は今もはっきりとむしろ強くなっているほどだが、思考はそこに偏りがちでむしろそれが自分の特性なので、そのままにしてあるものが変容では多く書き残されている。やたら音符を敷き詰めるのも、何かの強迫観念からのようにたまに思うが、考えてみればそうでは無く、もともとは前述の一人で演奏したいと思う(20歳を少し過ぎた頃にははっきりと自覚していた)に至る必要条件がもともと自分に備わっていたのだろうところから来る思考の偏りだろうと思う。後半に展開され続ける音群はそれを正確に神業のように切り抜ける奏者がいたら、奮えがおさまらぬほどのものをもたらすのではないか。

4月 動機は福島。前半から中盤終わりあたりまでの楽想で走り続けるよりはこういった何かのきっかけで変化を起こすことがやはり多い。延々同じようなことを忌避するのを、殆ど反射的に思うのは我々とて避けようがないのだろう。意識してそれを避けようとするには、それなりの必然が強くこちらに語りかけてこないと避けれないのではないだろうか。そうは言っても長年のやりとりの集積は、その楽曲の強度を損なうようなことはしていないように思えるから、長い時間を共有し、様々な局面をそれこそ繰り返し超えてきたり、間違えたり、停止したりした者のみ持つ力なのかも知れず、既視感を誘う終止は長年やっていれば度々起こるものとして納得もしよう。

5月 動機は濱地。この作品を見ていると五線譜を介した二人の作曲者が五線譜の上で、実際のインプロヴィゼーションのインタープレイが可能だということを語っているように思う。ほとんどその感覚と印象はステージ上、あるいはスタジオでの同一空間上で起こる楽器の操り手同士の「それ」に近く、言うなれば《変容の対象》の原初の「思惑」そのもの、の様相を湛えている。変容はその「即興性」を実際の時間より大幅に引き伸ばし、また別の空間に居る者同士がイデアとしての「即興」を媒体として五線譜上で思考の発露を表白し続けるものだが、部分的にでも実際の演奏に近い結果が現れるのは極めて稀であるし、この作品のようにほぼ全体が「それ」で支配されている光景はちょっと名状し難い現象だと思う。

6月 動機は福島。先月の作品とは打って変わってそれぞれが内省的に沈み没入し続けるような楽想になっている。それ故か所々でアンサンブルの破綻にも似た箇所が散見される。その破綻に似たものは実は破綻ではなく、変容の最も変容らしい交換作曲故に起こる現象であり、我々が実はそのような現象に強く惹かれてフォーカスする箇所でもある。

7月 動機は濱地。おそらくこの作品をかたちづくる核の部分はもう既に2009年の8月の作品に現れている。2009年といえば《変容の対象》が始まった年だから自分のもとから備わっている領域であるだろうし、福島さんにもおそらくそういった領域はあるのだと、これは譜面を2つ並べれば一目瞭然のこととしてそこに現れている。2009年8月も動機は自分が書いているからこのような楽想は自分のあるいは親密な対象であるのかもしれない。音のうつろいは発音のタイミングから消失の余韻、さらに次の発音のタイミングの判断の誘いとなって配置される。動機に支配された楽想は2009年8月と同じくこの作品も動機に支配されたままfineを迎える。

8月 動機は福島。これを書いているのが2022年の9月29日で岐阜県のサラマンカホールでの演奏を終えた後のことである。映像作家・前田真二郎と我々の共同作品、日々《変容の対象》Aug 2009-2021の演奏曲目にこの作品が最後にあった。イレギュラーな展開(大前提として我々が演奏する想定で変容は書かれていない)で作曲者の一人である自分がサックスを演奏することになり、この作品は全体を実際に楽器を通して理解している数少ない作品のうちの一つだ。事物には様々な階層があり、楽譜のみでの理解と楽器を通しての理解ではある領域に触れる可能性の幅が違うと仮定する。あくまで作曲行為において自分は思索を重んじるが、それでも同時に演奏者でも在り続けるからその演奏時に触れるものにも特別な価値を見出すものだ。イアマスのスタジオでのリハーサルでの楽譜通りの演奏と、本番のほとんど破滅に近い自身の演奏のどちらも《変容の対象》の剥き出しの何かが私に触れてきたという意味において記憶に残り続ける作品の一つと言える。

9月 動機は濱地。何を狙ってこの動機を書いたのかほとんど記憶がないけれど、その動機に導かれた楽想は福島さんのピアノ組織のこの重厚な構築にある種の「聴く事」、耳を澄まさずにはいられないような導線をあたえた事はわかる。変容ではサックスとピアノはどちらもソリストであり主従関係は存在しない。演奏家には必ずそう説明するし、基本概念のひとつだ。とはいえ、外からは、また他者からは、あるいは我々にでも主従関係の印象をある局面では描いているように見える場合、局面もあることは確かだ。音群によって描かれるその様相は書かれる概念とは別に現象として様々な印象をその場に刻印しながら流れ、去る。ピアノの旋律の構造体の総体が印象に強く残る。

10月 動機は福島。中間部の展開に転ずる組織がやけに鮮明な印象を湛えている。全体を演奏するのは恐ろしく困難であることは容易にわかるほど難しい局面が断続的に顔を覗かせる。変容は基本的に譜面面(ずら)はそうは見えなくても演奏することは相当な難度がどの作品にもあって、この作品のようにそのレヴェルが一段と高くなる作品もまま出現する。前半の軽やかな印象の部分は演奏家にとっては軽やかに吹くには難しい綱渡りを強いられるようなポイントがそこかしこにあって、後半はこの音群に、《変容の対象》特有の両者の組織のズレがうまれる。しかし、そこが眩暈をもよおすほどの瞬間だったりする。

11月 動機は濱地。他の月の作品と比較して随分あっさりしている。何も起こらなかったわけではないのだけれど。そうは言っても一定の構造は担保されているように思うし、後半からのfineへの導線は印象的だ。

12月 動機は福島。12月は毎年スケール感のある展開になるようだが、それが何故なのか未だに謎だ。結論から言うと《変容の対象》の理想の作品のひとつ。と両手を天に向かって掲げて絶叫したいほどのものだと思う。誰がこれをデザインしたのか、、、そういった無名性の中でも突出して良い。


2022年9月30日和歌山にて記す

濱地潤一