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from Mimiz blog [May.24.2011]







濱地潤一さんからのメールを受信:時間は23日に日付が変わって2分後になっていた。
《変容の対象》2011年5月5-6小節目のsaxパート、2011年5月23日の朝に受け取り、夜に確認した。

今月の《変容,,,》は順調に成長を続けているように思う。

《変容,,,》に関して言えば、順調ではない月ももちろんあるが、そもそも曲自体の持つその傷や歪み、短命、長寿の様子などすべてを認めてあげられるほどに、大切に育ててきたという意識はある。おそらく濱地潤一さんの中にもそのような意識はあるだろう。ただ、だからといってどんな作品になっても許せるのだ、ということにはならない。1ヶ月間精一杯向き合って、結果形作られた曲に関してはある一定の評価は持てるだけのものにしたいという想いは常に働いてきたし、今後もつなげていかなければいけない。
そしていつも《変容,,,》で一番エキサイティングな場所は、次にどの音が並べられるのかという作曲の渦中、あらゆる可能性を含んだ「現在」である。

最近、植物の事に興味が湧くので少しずつ時間をさくようにしている。植物の育ち方について調べたりしていると、その成長速度のあり方に複数の時間の存在を感じたりして、非常に音楽的に感じられたりもする。
植物の成長において、その速度の一番早い箇所はその末端、それ以外の箇所は徐々に速度を緩めるか(器官によっては)停止に向う。《Amorphous Ring I & II》で試みた複数の時間の扱い方は、植物の幹や枝の育ち方、拡張と収縮(ゲーテ)の関係と通じるものがある。

植物を音楽的に捉えようとする事で、植物の形状は時間のシンボルとなり得る。
成長(或は変形)の渦中にある箇所を「現在」、既に形作られた幹や枝葉は「過去」、そしてそれらを取り囲む空間は「未来」として。
そうして捉えれば、これまでのすべての時間が共通に1本の線によって1直線に進んで行くというイメージとは異なるあり方も想像しやすい。

「植物の形状とその空間」というイメージによって、記憶、おそらくは「未来の可能性を内包した記憶」の形状として新たなシンボルを植物の形状に置き換える。驚くほど(観念としての)記憶の形状と植物の形状には類似するものがあるからだ。

道ばたの何気ない草木の形が、あらゆる生命の時間、記憶のあり方を象徴している。
もしくは、私たちは一生を通じてひとつの植物を心の内に育てているとも言えるかもしれない。


同じ時の経過を通過しても、地球上に存在する植物の形状の多様さほどに記憶のかたちは多様なのではなかったか。

(a text from Mimiz blog May.24,2011)