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三輪眞弘+前田真二郎『新しい時代』







2017年12月9日、愛知県芸術劇場の小ホールに足を込んだ。2000年に初演された三輪眞弘+前田真二郎によるモノローグ・オペラ「新しい時代」の再演を目撃するためである。このオペラの再演の噂は、どこからということもなくだいぶ前から聞いていた気もするが、2017年の7月に正式な日程のアナウンスがあり、その時、覚悟を決めて手帖に予定を書き込んだのを覚えている。なんとしても足を運ばなければいけない公演だと感じたのである。

2000年に初演されたモノローグ・オペラ「新しい時代」は三輪眞弘氏の言うように、「100% Made in IAMAS のオペラ」(*1)である。2002年に新潟県の片田舎からIAMASの学生となった私にとって、そのオペラの存在は、もはや体験することは出来ない少しだけ(だが決定的に)過去の出来事であったのだけれど、そのオペラの影は2002年当時のIAMAS内にはまだ色濃く遍在していたように感じている。それらは在学中のふとした瞬間に何度も意識させられた。当時、私の指導教官でもあった三輪眞弘先生は作曲行為に対して「修行」という言葉を使っては意味深な笑みを浮かべていたし、研究室の片隅にはCD「新しい時代 信徒歌曲集」も置かれてもいた。学内プロジェクトで当時参加した「次世代パフォーミングアートの創造的研究プロジェクト」(通称 ブタゲイ)のミーティングで、前田真二郎先生からは「オペラは作らないの?」と何度か問われたことも記憶しているし、在学中に観た演奏会やライブの中には、卒業生のさかいれいしうさんが”主人公の少年が架空の宗教団体の布教活動を行っている”想定のパフォーマンスすらあった。また、当時のIAMASにはこのモノローグ・オペラ「新しい時代」初演に実際に関わった学生もまだいて、そういう同期や先輩達からは、皆多くは語らないものの作品の強度に対する姿勢の高さやそれ故の慎重さなども含めて「作品とはどうあるべきか」というようなことの判断基準が高く、私とは数段違うと感じさせられてもいた。このオペラの初演を通過している者とそうでない者との間には共有されている何かについて決定的な断絶があった気がしたし、その意味で私はずっと楽観的な部外者のままだった。

舞台で行われた出来事を後日ありありと他者に伝えることなど到底不可能かもしれない。それ故に経験された時間はどこか秘密めいたものになる。2017年12月、実に17年ぶりに再演されたこのオペラは初演時のものから音楽と映像の変更はないという。しかし、当時技術的に不可能だった表現を新たに実装し、理想の状態に近づける努力は続けられたという。そのひとつが、人工的な音響合成による声の生成の成果だ。これは三輪眞弘氏と佐近田展康氏によるユニット、「フォルマント兄弟」(2000年結成)のこれまでの活動のひとつの決定的な到達点だった、といっても言い過ぎにはならないだろう。声を単なるサンプリングによってではなく、フォルマント合成を駆使して根本から組み立てること、しかもそれを「個性を持った声」として作り出すことは現在でも技術的に大変困難な領域である。それにもかかわらず、この日行われた公演では、主人公を演じる、さかいれいしう氏の身体から発せられる声と極めて高い精度で酷似する人工的な声が生成され、リアルタイムに旋律を歌ってみせていたのである。映像的な演出も、基本コンセプトは踏襲しつつも、新たに今日的な手法が付加され、リアルタイムな映像処理が必要且つ充分な範囲で配置されていた。それらは結果的にこのオペラに表現上のダイナミックな強弱を、ある種の「見せ場」を与えることになっていた。

モノローグ・オペラ「新しい時代」は舞台上に上がる3人の信者(オペレーター)、儀式を司る4人の巫女(キーボード)、そして主人公の14歳の少年信者による独白と歌によって構成される。ここにはネットワーク上に存在する巨大な記号の集積に神の存在を認め「新しい時代」と呼ばれる教団へのまっすぐな信仰の告白を行う少年の姿がある。自らの身体情報全てを記号化(アーカイブ)し永遠の存在と一体とならんと、自身の声/歌によってネットワークへアップロードする儀式(「奉聲の儀(キャプチャー)」)がある。そして時間と共に変化し劣化していく肉体を不浄ととらえ望んで自らを消去していく少年の別れの言葉は、何処か異常な喜びに満ちている。観客もその儀式の参列者という位置づけである(*2)。ここで少年から発せられる言葉は極めて断定的に確信を持って語られる。これらの言葉には何かをほのめかし、詩的な余白を残すようなことが一切ない。少年にとっての信仰の対象は、「神の旋律」となってネットワーク上に流れ続けている極めて高次元に記号化された情報の総体である。少年のこの確信に満ちた信仰の告白は、そのまま「音楽」への実直な愛・信仰と捉えなおすこともできる。少年の語る「神」の姿は「音楽」そのものでもあるかのようだ。


モノローグ・オペラ「新しい時代」は伝統的なオペラの形式から決して逸脱しないという意味で純然たるオペラなのであり、故にここで行われることは全てフィクションである。だから、ここで語られる宗教団体も、声変わりを目前に自らの身体をネットワークに保存し、自殺する少年の一連の行動も儀式も架空の出来事でしかない。そうではあっても、初演当時の日本の状況を考えれば(オウム真理教によるサリン事件、神戸での連続児童殺傷事件など)、このオペラが多くの観客にある種の強く暗い嫌悪感を抱かせたであろうことは充分に想像できる。ただこの再演で私が予想していなかったことのひとつに、オペラの中で高らかに語られる音楽への信仰告白の中に、オペラ的な誇張や虚構でデコレーションされた言葉の要素がほとんど見つからなかったということがある。ここでは音楽のある種の特殊な側面が極めて理知的に、極めて純粋に素朴に誠実な態度で語られており、そのバランスはオペラのフォーマットの中では裏返してやや歪ですらある。今、私たちの暮らす現実の世界では、音楽における誠実も堕落も完全も不完全も全てがどうでも良い事柄かのようである。そんな中にあって、音楽への極めて純粋で誠実な告白などいったいどこに存在し、いったい誰が迷いもなく語ることが出来るのだろうか。音楽に対する確固たる信仰はもはや微塵も存在しない時代を生きながら、作曲家はそれでも自らの信じる音楽を求めて迷い、彷徨い、書き続けているのである。しかしながら、極めて特殊な形ではあるけれども、この音楽に対する純粋で研ぎ澄まされた信仰告白が、オペラという様式を通じて、この「新しい時代」というモノローグ・オペラの中には見事に結晶化されているのを感じたのである。この奇跡のような関係性に、私はこのオペラの強度と普遍性を感じずにはおれなかった。だからこそ、この作品への強い共感自体が同時に強い嫌悪感を引き出すという構造的な「ねじれ」の意味も強く実感することになったのではあるが。

この再演を通じて、私はようやく当時IAMASに漂っていた秘密の痕跡をほんの少し理解できたように感じている。卒業後十数年かけて、私がゆっくりと音楽に対して実感を深めてきたことのほとんどはこのオペラの中ですでに明確に言語化されてもいた。だからおそらく、当時私が楽観的な部外者であり続けられたことはある意味幸せなことだったのかもしれない。しかしもはや、これを通過した作曲家(もとより表現に携わる多くの人々)は、純粋に表現に向き合うことの意味について、美について、新たな決意・覚悟をもって進んで行かなければいけないだろう。歩みが遅くいつまでも答えを出さない私にさえそんな決意めいたものを運んで来てくれたのだから、今回の再演の強度は確かなものだったのだと思う。「テクノロジーと実在/声をめぐるこのオペラ」(*3)の再演が、主人公のさかいれいしうさんの清らかな演技と歌によって、そしてリアライズに関わった全てのスタッフによって力強く実現されたことに、最大限の感謝を送りたい。

(contribute to a iamas web Jan.25,2018)


(*1) 2017年12月4日(12:24) IAMAS関係者へ送られたメール「[iamas] モノローグ・オペラ「新しい時代」の案内」の中で”ウェブサイトの解説にもあるように、この小さなオペラは4人の巫女役以外は、主役のさかいれいしうさんも含めて、すべて当時のIAMAS現役学生と一緒に三輪&前田が創りあげた、100% Made in IAMAS のオペラです。”とある。
(*2) 観客は入場時に手の甲に「信者の証」としてのマークを判子で押される許可を求められる演出があった。
(*3) 再演当日配布されたプログラムノート内「Message」より