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from my diary [Mar.17.2018]







 Noismの金森穣氏を筆頭にNoismのメンバー、そしてその制作スタッフは妥協の無い作品制作とハイ・クオリティーな舞台作品を発表し続けている。表現領域において妥協をしないということは、常に新しい領域を模索し発見していく孤独な作業である。そしてこれは同時に、観客自身も一回性の舞台表現においてNoismの提示する新たな表現の中に自分なりの発見を見出すよう、孤独な作業を常に問われているということでもある。

 2018年3月6日の新潟日報朝刊において、市の財政難の状況下Noismへの予算見直しの可能性が示唆される記事が出て、一部で話題になっているようだ。ここにはNoismへの予算減をどうにか阻止したいという気持ちとは裏腹に、何とも言えないもどかしさが充満している。これはその成果をどう評価することができるのかという観点、つまり「芸術表現」の評価において客観的な数値化などはたして可能であろうか、ということでもありそうだ。

 しかしながら、私が金森穣氏を、そしてNoismを評価している唯一の点があるとすれば、それはその「妥協の無い創作態度」の一点である。その創作に対する純粋な思考と身体が、新潟市という身近な場所に存在し、それがまた世界に発信される可能性を充分に含んでいるというその奇跡のような事実そのものが、日常の私の思考を律してくれもするからである。おそらく、そのように感じているのは私だけでは無いはずだ。そうでなければ今回のような議論はそもそも起きていないからである。その意味で、Noismはこの13年間の活動を通して、新潟市の「芸術性」における、ある極めて個人的でありながら創造的な部分の、実体を持った「代弁者」として機能し始めているとも言えよう。

 正直な話、Noismが解散しそのメンバーや金森穣氏が新潟を去ったとしても彼らはまた別の地で、確かな創造を続けていってくれると信じている。それだけのポテンシャルと身体が彼らには備わっているからだ。しかしながら、いまNoismを失うことで大きな喪失感を味わう市民は少なくないはずであり、その補完はこれからの13年間では到底立て直せないものである。そしてもし、今後Noismの予算が減るというようなことがあるとして、そうであればなおさらなのであるが、Noismにはこれまでよりもいっそう「妥協の無い創作態度」で新たな表現の模索に集中してもらうことを私は望むだろう。Noismの真骨頂は極めて高密度な身体の表現と、観客がその時間に立ち会う事なのであり、それ以外は極端な話、Noismでなくても可能な領域であるからだ。

 Noismの活動が高いポテンシャルを持ちながら今後も継続している日常を想像してみよう、老若男女の幅広い年齢層が新潟市に集まり、先鋭的な表現に賛否の声を上げる。そんな自由な空気の中にこそ深く人間的な思考のやり取りが存在しているはずであり、そうしたものこそが現状よりも一段上の質をもった文化的な在り方であると思う。そうした日常はまた、金森氏のような創造的な人間の眼をさらに輝かせていくはずであり、その循環がやがては「ここ新潟市でしか為し得なかった」というような表現の領域を生みだしていくことにもなるだろう。多くの人の記憶に刻まれる舞台・瞬間・時間が創出される、そのような未来を私はこれまでも望んできたし、政治・財政あらゆる観点で困難な時代が近づいているこれからも強く望んでいくつもりである。

(Mar.17-18,2018)