+   《変容の対象》2017年版


楽譜 / scores
※楽譜のsaxophoneパートは全て In C 表記。
サンプル音源 / sound sample

00:00 [00:00]

       
総括 / summary +

 作曲: 福島諭 + 濱地潤一


+ 福島諭より

《変容の対象》2017年版総括文


2017年12月31日の21時に濱地潤一さんからのメール連絡を受けて、2017年版《変容の対象》も無事に12曲の作曲を終えることができた。これで9年分の《変容の対象》が完成された。《変容の対象》は、1年で12曲が作曲されるので、ここまでで(9年×12曲=)108曲の共作が生み出されたことになる。濱地潤一と福島諭の五線譜を介した作曲(交換作曲形式)を行ってきた《変容の対象》は、9年目を終えて「楽想のあり方」自体には落ち着いたものを感じている。現在《変容の対象》で表現し得る領域は、おおよその許容範囲が見えている状態にはあり、そこには嘗て作品としての純度が高く残った領域もあれば、この形式では上手く留まらない領域もある、その辺りの判断は大分整理されてきているように感じている。そんな中にあって、かつてのように未だ知らない領域を求めるようにヒリヒリとした感覚を持ちながら作曲するというようなことは少なくなっているとは思う一方で、各月で提示される第一動機からどのように楽想が形作られていくかの興味は未だ尽きることはなかった、というのが2017年版を作曲していて感じられた基本姿勢だったと思う。
 2017年は福島諭の側ではこれまでの生活環境からは大きく変わる年でもあった。具体的には新潟県新発田市の吉原写真館で約11年続けさせてもらった写真館での仕事を、2017年の元旦から正式に離れることになったことである。写真館館主の吉原悠博さんは写真館での業務の他に美術家としての活動も兼任されていて、その基本姿勢や考え方などを端で直に感じることができたのは大きな財産となっている。また吉原さんの周りには実に多くの人や写真メディアを介した記憶や記録の往来があり、長い尺度の時間性について考えを深める貴重な体験ができていたと感じている。それでも離れた具体的な理由は2015年春に引っ越しをして、新発田市との距離が物理的に遠くなったことが大きい。1年以上はその状態で続けてみたものの、通勤時間で往復4時間というのはやはり大きく、個人の制作・発表等に伴う時間のやり繰りがいっそう難しくなってきたと感じることが多くなっていた。そうした理由から今後のことも相談し、写真館を離れ、とりあえず2017年は福島諭独りの時間を優先してみるところからスタートしてみようということで開始された、変化の年だったと言える。
 生活の基本的な基盤が無くなった状態であったけれど、(家族の寛大な理解もあり感謝しつつ)ではいま自由に時間を使えるとしたら、と考えてまず最初に頭に浮かんだのはやりかけの個人制作のことだった。今までの生活サイクルでは半年以上かかっていた作業をわずか2~3月で終えることもできた。こうして、個人作曲や濱地潤一さん作曲の室内楽シリーズの楽譜の清書を何冊か進める事ができたのは大きな収穫だった。新しい試みでは、プログラミング言語のOpenFrameworksに(世の中とは周回遅れながら)取り組むことができた。画像の、特にRGBによって成り立っている画像についてプログラミング言語の観点から操作を行えるという経験からは、今までにない特別な感触を得ることができた。平行してこうした作業がどう社会と関わりを持ち得るかということも考えないではなかったが、手持ちの表現手段はまだどれも始まったばかりでまだ若すぎるように思えたし、結果は急がないことにした。その上で、最終地点が見えていないものに対する興味のほうが勝ったようだ。とにかくこうした様々な可能性を広げる作業を年の前半では集中的に行えたのは大きなことだった。現在では《twill the light》という短編映像のシリーズとなって作品はvimeoに公開され続けている。主には2枚の静止画に留まっているRGB情報を比較して表示画像に変化を与えていくという処理がメインとなってきており、これは静止画に時間軸を与える行為であるという認識までは実感できている。
 2017年の一年間を通して、考え続けたテーマは「花言葉とは何か。」であった。花言葉を扱った新作を書きたいとふと思ったのがきっかけでもあるが、花と花言葉の相関関係が自分にはとても謎めいてずっとその距離が縮まらなかったために作曲自体は進まなかった。結局は「花言葉」がなぜそもそも存在し、今もささやかな風習として密かに残っているのか、結局「花言葉」に見られる"対象と言葉の関係"の構造に、他の事象で似たものを連想してみたりすることのほうに興味が移ってしまった。未だにはっきりとした答えはないものの、作曲の基本姿勢に対してわずかながら変化を与え続けた問いとなっている。《変容の対象》は五線譜での作曲が前提となっており、五線譜は楽曲の構造的な骨の部分を記録するのに適している。一応はピアノとサクソフォンを前提に書かれてはいるものの、演奏においては別の楽器で代用されてもかまわない。実際にこれまでに初演された《変容の対象》もピアノとクラリネットの組み合わせが多かった。そうした、楽曲自体の価値を音色に見ない態度は《変容の対象》などの作品のあり方としては正しいと思うため、今後も変更する予定はない。ただ、このような態度は学生時代から少しずつ取り組んで後から獲得してきた作曲者としての態度でもある。もともと自分にとっては、音楽に魅力を感じ、惹かれてきた要素の中で、「音色」の比重は大きい方だった。音の手触りというような部分で、何か自分の中に響いてくるものを見つけると何とも言えないニュアンスがそこから立ちのぼってくる。場合によっては匂いに近い記憶や深い関わりをそこに持ち得ることができもする。そうした「音色」との関わりは音楽の魅力に決定的に関わっていながらも、享受する受け手との相性もあり絶対的な評価はしにくいものでもある。つまりは学術的な研究には向きにくい領域なのかもしれない。だからこれまでは、「音色」への言及はひとまず横に置いてきたし、「音色」によらない作曲を目指してきたとも言える。しかし、音楽における「音色」は、その楽曲の印象に極めて重要で本質的な役割を担っているは間違いないとしても、なぜこれほどまでに語りにくいものなのであろうか。
 話が飛躍すると思われるかもしれないが、ギターという楽器に改めて注目しようと思ったのも2017年であった。考えてみればギターという楽器は現在でもかなり広く様々な音楽に用いられている楽器である。その意味で楽器自体がかなり多様で複雑な文脈を保持している。そして、その楽器を演奏する身体自体も人によって様々な文脈を保持しているとも思えるようになったきた。身体がギターの演奏に適して発達するにはそれなりの時間と才能は必要であるし、そのような時間をかけてどのようなスタイルを獲得するかということには必ず思考上の選択が関わっている。2015年にMimizの飛谷謙介さんと、《変容の対象》の濱地潤一さん、福島諭の3名でギターについて注目し、とにかく3者で何か手を動かしつてみようという「ギター・プロジェクト」(後に「gp」と改名)を立ち上げていた。2017年の3月の下旬にDanelectroのギターを一本購入し、実際に自分でも弾いてみて全く指が動かないことを感じることでいっそうギターを弾く身体に興味が沸いてきた。少なくとも、この3名でのギターを使った演奏の趣向はかなり違っているとも思えた。この「gp」の活動以外でも身近な数名に、ギターの演奏を録音させてもらったりしつつ(新発田市のcaffenova店主松井雅哉さん、ハワイで言語学を学んだ伊藤知明さん)そうした思いを強くした。
 いずれも明確な成果を残せたわけではないが、2017年は「音色」への興味を取り戻すと共に、ギターという特定に楽器に注目する中で楽器に留まっている文脈の不思議さを感じ、それらが花に対する「花言葉」との関係と無縁とは思えない、という少し入り組んだ辺りに今後の可能性を見ることになった。そうした中にあって、自身の発表の形態は少し変わり、録音素材を集めて、それらを異なる周期で組織し直すためのプログラムを組み、発表し始めたことなどもある。ソロの演奏では、ギターの演奏を多く取り入れたこと、尺八とコンピュータとの作品の改訂に力を入れたこと。8月にはデザイナーで美術家の高橋悠さん+香苗さん、映像作家の遠藤龍さんらと自主企画『RGB』を行えたことも大きな一歩として記憶している。9月にはギター・プロジェクトを「gp」と改名し東京で発表(現場には福島諭のみ参加で、飛谷謙介さんと濱地潤一さんは音源提供として参加)、12月にはMimizの3rdアルバム「Romantik」のレコ発ライブを行うなど、決定的では無いにしろ、新たな一歩と思えるものはいくつか踏むことができた。
 様々なことが関わっていて上手くまとめきれていないかもしれないが、自分の時間がいくらか有効に使えるようになった年でもあったので、興味ある公演などには可能な限り足を運ぶことにした。1年を通して印象に残っているのは、アンセン・アダムスのオリジナルプリントや三輪眞弘さん+前田真二郎さんの2000年のモノローグオペラ『新しい時代』再演、ICCでの坂本龍一さんのインスタレーション『坂本龍一 with 高谷史郎|設置音楽2 IS YOUR TIME』などだ。2017年は坂本龍一さんの約8年ぶりのアルバム「async」の発売があり、とても深い共感をもってそのCDを聴いた。それに伴う、マルチ・チャンネルの音響作品の公募があり、審査委員が坂本龍一さんだったことも関係して是非聴いてもらいたいと6月にエントリーした。その作品が「佳作」をいただきICCのシアターにて2018年の3月11日まで設置されることになったのには、大変励まされた。作品自体はマルチ・チャンネルにおける楽曲の可能性をまだまだ追求できるような気持ちにもなり新たな課題をいただいたような気がしている。
 そうした個別の活動と《変容の対象》との関係はどうだったろうか。9月の「gp」の発表後の音の組織の変化は濱地潤一さんからも指摘があった。確かに、どんな音であれ、ある程度深く音に接する時間を持つと《変容の対象》作曲時に浮かんでくるアイディアも明確に変わる場合がありそうである。ただ、それ以外はそれほど大きな影響はなく、全体的には淡々と続けたという印象だ。


1月[ free vertex ]
 冒頭文は福島諭による。vertex は数学で言うところの頂点や交点などを指す単語であるが、なぜこの言葉を選んだのか、詳しく覚えていない。おそらく、この頃に読んでいた、算数についての古い本に何か書かれていたのかも知れない。曲は最終的には25小節目まで書かれていて、いつまでも続くような印象を持つが、長いわりには音楽的なやり取りの密度はあり、緊張感も常に一定以上を保っている。また、第1小節目の濱地潤一さんからのメロディーが、あたかも最初から印象強く存在していたかのように感じられるけれど、これがあくまで福島からの第1小節目を受けて書かれているものだということも特筆すべきことかもしれない。冒頭の旋律はその後も何度も変奏され、時にはその断片がピアノにも現れる。17小節目の後半にもほぼそのまま登場するがここではピアノの和音との親和性はやや崩れており、サンプリングかコラージュのように置かれている。作曲の順番から考えれば濱地潤一さんのアイディアである。このようにテーマ自体との距離感の変化で考えるなら free vertex という冒頭文も何か意味を持ってくるようにも感じられる。

2月[ (冒頭文なし) ]
 冒頭文の指定は濱地潤一さんによるが、2月の冒頭文は無し。冒頭文無しで書くのは随分久しぶりだったのかもしれない。楽曲の全体的なイメージは音価の密度はそれほど変わらないが、響きの在り方が徐々に変化している。その振り幅は、わずかながらいつもより広いかもしれない。冒頭文がないことのささやかな影響かもしれない。冒頭の響きの印象は《変容の対象》の中でも新鮮なものがあると思う。

3月[ FIVE ]
 冒頭文は福島諭による。なぜこの冒頭文なのかは忘れてしまった。pianoは和声的な積み上げと進行について意識的に書かれているように感じる。組織のやり方に何か基本的な構造を持たせていた可能性もあるが、詳しい資料を残していないので、案外感覚的に書いているのかもしれない。五度の音程などを意識しているのは間違いないだろう。全体で21小節とやり取りとしても長いものだったが、基本的な和声の色彩は大きくは変わらない11小節目からの互いの楽器の独奏部分には印象的な瞬間がある。

4月[ Hic incipit amor Dei. ]
 冒頭文は濱地潤一さんからのもの。4月11日に第1小節目が送られてきているが、そのメールに『冒頭文はHic incipit amor Dei.「神の愛ここに始まる」ジッドの「狭き門」より。』と書かれていた。
 最初の濱地さんの第1小節を受けてどう返答しようか思案したことは覚えている。また、4月16日の濱地さんからの3小節目が13拍全て無音であったことが曲の中間部の音を引いていく、あるいは、無音を意識化する展開の布石になっていると思う。なかなか珍しい展開をした。

5月[ Twill The Light 010 ]
 冒頭文は福島諭による。" Twill The Light "はこの年から開始した映像短編シリーズで、主に静止画のRGB情報をコンピュータ上で処理して時間軸を与えていくシリーズになっている。その10番目の作品(https://vimeo.com/215724273にて公開)との関係を示唆する冒頭文になっている。  しかしながら、楽曲上は"Twill The Light 010"の視覚的に倒錯したような感覚には残念ながら近づけていない。努力はしているかもしれないが、また別の作品になっているように感じる。

6月[ feather,doom ]
 冒頭文は濱地潤一さんからのもの。この英単語を何と訳せば良いか確信がないまま作曲を開始していした。曲のイメージは濱地さんからの第1動機を頼りにした。中間部で惰性で進行し始めた頃に濱地さんが再び沈黙を作っている。終わり方はなかなか新鮮な歪さがある。

7月[ Flip horizontally ]
 冒頭文は福島諭による。左右反転というような意味かも知れないが、もはや音楽的には何の意味もない冒頭文になっている。
冒頭文と切り離して考えて、楽曲自体はなかなか面白いが特に17小節目から最後までの集中力は高いものがある。

8月[ 極めて簡潔に ]
 冒頭文は濱地潤一さんからのもの。小節内の拍子が4/4で短いこともあり、やり取りの回数は多いわりには短い曲になっている。
ここでは、音と音の間を丁寧に調節しているやり取りとなり、最初は若干ギクシャクするものの、後半は高い没入感を作っていると思う。また、これは4月の楽曲を伏線に持っているものだとも考えられる。

9月[ dusk ]
 冒頭文は福島諭による。福島からの第1小節目を受けた濱地さんの応答は循環呼吸を使用した高いCのロングトーンのみであった。そしてそれは楽曲の終わりまで終始続けられた。印象的な1曲となった。もし実際に演奏されれば、今まで感じたことの無い気持ちで心が動かされると思うほどに独自の強度を持ち得ているように感じる。

10月[ Scorn ]
 冒頭文は濱地潤一さんからのもの。さげすみや軽蔑を意味する単語が冒頭文であり、濱地さんのとても早いパッセージから開始される。ピアノは低音の短い連打音で応答し、やがてそれが右手の動きにも影響してくる。バリエーションも多く展開して、最後はばっさりと終止する。冒頭文との親和性は感じられる。

11月[ gp ]
 冒頭文は福島諭による。冒頭文に使ったgpは、濱地潤一さんとMimizの飛谷謙介さんと福島諭の3人で2015年より細々と続けているプロジェクトの名前に由来する。そのコンセプトには3人が別の場所で、別々の時間に録音した素材を使って楽曲を成立させていくという意図がある。それを冠した楽曲にそれだけを示唆するものがあるかと言えば、それほどのものは留まっていない。ただ、9月の下旬にgpの初めてのライブを東京で行ったという事実の刻印のために採用された冒頭文であった気もする。

12月[ conversion type X ]
 冒頭文は濱地潤一さんからのもの。conversionは変換などを意味する単語だが、楽曲自体、少なくともピアノはそのような動きはしていない。冒頭の濱地さんからの動機を短く展開するような動きはピアノにも見られるが、全体的にはこれまでの《変容の対象》らしさの範疇に納まってもいると感じる。最後の小節(23小節目)のサクソフォンのソロはシンプルながら美しいものがる。



  *2017年の活動内容を以下にまとめる。
【発表関連】
■Noism近代童話シリーズvol.2 公演 "マッチ売りの話+passacaglia" 内の演目passacagliaに楽曲を提供(2017年1月20日より初演)
■Anti Music Winter Live @新潟古町 Next21 ビル1階アトリウム (2017年2月21日)
■Heavenly Me Last Days@新潟古町 喫茶MAKI (2017年6月25日)
■/0 @名古屋新栄 Parlwr *Mimizとして演奏(2017年8月11日)
■山ノ家の5周年 昼下がりの音楽会@新潟県十日町市 山ノ家(2017年8月19日)
■RGB@蔵織(2017年8月27日)
■Interim Report edition2@東京渋谷CIRCUS TOKYO *gpとして演奏(2017年9月22日)
■ICHI Japan Tour 2017@医学町ビル(2017年10月15日)
■周辺の音楽@新潟新発田市 Gallery 3+4 Creative(2017年11月23日)
■「坂本龍一|設置音楽コンテスト」入賞作品上演 佳作《gladiolus white》@ICC (2017年12月9日(土)- 2018年3月11日(日))
■Mimiz 3rdCD 「ROMANTIK」レコ発@名古屋鶴舞 K.D.Japon *Mimizとして演奏(2017年12月23日)



【文章・楽譜関連】
■"Heinrich Biber 《Passacaglia in G minor for violin solo》を基本情報に持ち制作された音響群に対する覚書" ( 2017年1月8日 )
■《BUNDLE IMPACTOR》for Alto Saxophone, Oboe, 2 Clarinets and Computer 2013 (2017年4月9日)
■《florigen unit》for Oboe, 2 Clarinets and Computer 2011 (2017年6月24日)
■《layered music op.》for Soprano Saxophone and Piano 2009 濱地潤一作曲作品 (2017年7月28日)
■『周辺の音楽』作曲家 福島諭の場合 入門編 (2017年11月23日)
■Ryuichi Sakamoto: CODAを観て、思うこと『[ 感想 ]作曲家 福島諭が語る「CODA」』(web)



この総括文を2018年4月15日に書き終える。

福島諭。






+ 濱地潤一より

《変容の対象》2017年版総括


今はもう2018年の3月16日。例年なら変容の総括文は新年を迎えてすぐに書き出すことが習慣となっていたが、様々な要因で今になってしまっている。実際のところ、直接的には家族の入院であったり、mac bookのカーネルパニックの頻発だったりそういったことも大きな一つの要因ではあるけれど、2017年に感じていた音楽に対する自身の心象なども大きいのかもしれない。簡単に言ってしまえば距離感というか、音楽に対する無償の奉仕のようなもの(大袈裟に聞こえるかもしれないがこちらは大真面目だ)に少し陰りが見え始めているようなそんな年だったからかもしれない。これは一過性のものなのか、初めて味わうような心象なので自分でも判断がつかないでいるが、ふと何かの拍子にある種のバカバカしさを感じて自分でも驚いていたが、その対象はひどくぼんやりとした音楽という大雑把なイメージに対するものでもあるし、自身へのものでもあるし、そこが問題なのだが前者の音楽という総体への距離感であるなら、今までも世間に流布されている音楽の95%(SFの大家の言葉ではないけれど)が自分には全く理解不能なのでそういったことは潜在的に顕著にあったけれど、こと自身が何を見ているかに於いてはその音楽に対して一片の疑義も生じなかった。そこに奉仕する、あるいは無条件で従うことに疑いようもない何かを常に感じていたのだった。その疑義をバカバカしさという形容で言及するには今でも抵抗があるが、ふと感じたそれは初めてのことであったし、少し唖然とし、狼狽もしたかもしれない。それは非常に微かな気配なので、何も確信に満ちてはっきりとそれを自覚しているわけではないので、幻かもしれないし、それこそ前述のように一過性の気の迷いのようなものかもしれないが、そういった想念が確かに変容の総括文を書くようなことにさえ影響しているのではあるまいか、、、とこう、遅れた原因について何か思い当たる節のような心象が2017年にはあったな、、、微かに、、、と今書いているのと同時に思い返している。さて、音楽はとどのつまり極めて個人的なもので、個人的にそれ対峙して完結するものであると。おそらく真理である。変容に於いても共同作曲ではあるけれど、そのプロセスで他者が介在している(こうはっきりと介在している例は極めて稀であり、一概に変容を例に出すのはふさわしくないかもしれないが)最終的にはそこに帰結するのはおそらく福島さんも思い当たる節があるのではないだろうか。皆で共有するものではそもそもないのだ。と言い切ってしまうには世界は五月蝿すぎる。すると、つまり、、、世界がいやになったのだろうか。また、こういう想念が入り込むということ、すなわち単純に才能がないということでもあるだろうが、本質的に誰がそれを判断するにしても、知ったことではないということも真理でもあるはずで、立ち位置が揺れようがそれはものの本質ではないようにも思われる。
 日常はというとあいも変わらず音階の練習に始まって延々課題をさらう。その時に「一人で」対峙する音楽は得も言われぬ密度で体内を駆け巡り、それに支配されることに自分は無抵抗であり、おそらくそれを愛している。ただ救われるかというと最早そう思うことは無理のようにも思う。そもそも救われたいから音楽に身を没していたわけではないにしても救いのなさに打ちのめされることは一度や二度ではない。そういう側面も音楽にはあり、それもまた然り。その悪魔的な蠱惑の芳香は音楽の持つ性質でもありそこが人をこうも惹きつけるのであろうけれど、内部に入りすぎると地獄を見ることにもつながる。こんなことを考えるのは、それは自身の年齢なり、取り巻く環境なりが大きく作用しているようにも感じるし、この文章に書き連ねている内容のように錯綜している中で音楽をどう捉えたらよいのか初めて迷い始めているのかもしれないとも思う。そういえばもともと人前で演奏することにそれほど積極的になれなかったけれど、ここ最近はますますその傾向も強くなっている。いったい自分は何をしたいのか。この単純な問いさえ答えられないほど疲れているのかもしれない。そう、それだけははっきりしている。疲れているのだ。
わけのわからないことを書いてしまっている。変容の総括文を書こう。



1月。冒頭文はfree vertex。福島さんによる。確認してみるとあまり変容ではないような導入だった。全体は変容にしては長尺で力が入っている。後半の動機からの変奏が前半のそれとは違う世界を提示していることに何か心が動かされた気がして、なかなか味わいがある作品に映った。

2月。動機は自分から。冒頭文はなし。このような組織の提示は自身がよく試みるものだ。まだ方向性がはっきりとしていない前半部ではロングノートなど書いているがあまり良くない。中盤から最後までの動機を変奏させたようなもので埋め尽くすべきだったが、そんなことは終わってからわかることなのでなかなか変容は難しい。

3月。冒頭文はFIVE。動機とともに福島さん。この作品は何か記憶に残っていた。動機から受ける印象とかが嫌にはっきりと。

4月。冒頭文はHic incipit amor Del.動機も自分だが、全く覚えていない。このややこしい冒頭文は福島さんだと思ったほど覚えていなかった。組織自体は中盤の福島さんの組織形成とサックスの組織がうまく機能しているところだけは目を引く。

5月。Twill The Light 010。冒頭文は福島さん。前半から終盤にかけての執拗な楽想の統一感は意図して書いた。ただ終止に向かうところでcut upのような効果を仕掛けている自身のアプローチは間違いだと思った。ちなみにTwill The Lightとはシリーズで福島さんが手がけている映像作品である。

6月。冒頭文はFeather,Doom。動機とともに自身の。久しぶりに良い作品だと思えた。全編を通してという意味で。なかなか動機からfineまで今作のように抑制と均整のとれた組織を書くのは難しい。

7月。Flip horizontally。冒頭文、動機は福島さん。熱量で言えば今年の1月と同じようなやり取りの様子がうかがえる。興に乗るというとちょっと言葉に重みがないが、組織を互いにやり取りしている段階で否応なく動き始めるというような現象は変容ではよく起こる。どこか着地点を定めないような局面が多く見られるが、その意図的なものにも興味がいった。

8月。極めて簡潔に。冒頭文と動機は自身のもの。実際にこの冒頭文の概念だけ提示して試しに僕と福島さんとで生で即興演奏したとして、こうはならない。書かれることでこうなる。という良い例。

9月。dusk。冒頭文と動機は福島さん。C音による循環呼吸奏法を最後まで維持するとは当初考えていなかったように思われるが、結局途中から早々とそうすることに決めたことはおぼろげに覚えている。時間にしてテンポどおり演奏されれば4分8秒ほど。単音の循環呼吸奏法は想像するよりはるかに困難な演奏を奏者に強いるけれどそれをするに足る楽想を福島さんの組織が形作っている。

10月。Scorn。冒頭文と動機は自身のもの。組織形成はほとんどこの時期の自分の練習しているようなものからピックアップされているようだ。均整も取れている。福島さんの組織ともうまく機能しているから作品として成功しているように見えた。

11月。gp。冒頭文と動機は福島さん。gpとは福島諭・飛谷謙介・濱地潤一によるギタープロジェクトである。それもあってギターで思考する組織というようなことも考えにはあった。割と淡々と音楽は進んでいってごく自然にfineを迎えているように見えるが結構難航したようにも思ったり、よく覚えていないのだがちょっときになる作品ではある。よく聴いてみると。

12月。conversion type X。冒頭文と動機は自身のもの。確認するとほとんど覚えていない。冒頭文のconversionもどこかに飛んで行ってしまっているように見える。悪くはないがよくもないというところだろうか。


**
追想

2017年には11月の冒頭文にあるギタープロジェクト[gp]のライヴもあった。サックスを手にする時間には遠く及ばないが、ギターも毎日何かの形で手にするようになった。[gp]でできることの領域を増やすためということも大前提としてあるけれど、ギターという楽器固有の思考にも興味は尽きない。[gp]のライヴ形態はメンバーの三者が必ずしもそこで演奏しなければならない類のものでないことも気に入っている。(現に最初のライヴは福島諭さんのみがその場で演奏した)

2018年3月16日和歌山県田辺市にて

濱地潤一