+   《変容の対象》2011年版


楽譜 / scores
※楽譜のsaxophoneパートは全て In C 表記。
サンプル音源 / sound sample

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総括 / summary +
+ 福島諭より

総括文 《変容の対象》2011年版
2011年12月30日の深夜:濱地潤一さんに《変容の対象》の2011年12月の最後の小節を書いて送り、何度か確認の連絡を取っていた。濱地潤一さんからもここで終わりにしましょうという返事をいただき、今年の12曲が揃った。

そしてそのまま31日へ日付の変わった頃に駆け足で最寄り駅へ向った。小走りでなんとか間に合ったのだけれど、乗る予定だった大宮行きの寝台列車は秋田で起きた停電のために大幅に遅れているらしかった。この駅から乗客が一人乗るという情報は駅側も承知していたようで、駅員さんが待合室を暖めて待っていてくれた。約2時間の遅れだそうだ。
次々と時間が過ぎ去って行く感覚にすっかり捕われていた自分にとっては、思いもよらずにぽっかりと空いた2時間に思えた。この2時間をどう使おうか。そこで早速、《変容の対象》2011年の12曲を通して聴いてみることにした。
1年分、全体を通して聴くと思っていた以上に楽曲のテンションに揺れはなかった。表面的な様相は異なっていても一貫したものを感じるようで、それを少し不思議に思った。ピアノの動機にはクセとも言える連打音がいくつかの月に散在していた。全曲を通して12分台ということで組曲全体の長さとしては短い年となった。新たな表現を望むが故のやり取りの停滞というものは今年は少なからず感じられたし、それがそのままトータル時間に表れた形だろう。

結局これは、《変容の対象》の作曲方法における語法の一端が確立(少なくとも濱地、福島の間に両者なりの理解が生まれていた)されてきた中で、3年目が開始されたことと無関係ではないだろう。当初はあらゆることが未整理だったが相互作曲というやり取りの中で「自ら決定を迫られる領域」というものが少なからず存在することは意識されてきていた。その領域をお互い認識しつつ、丁寧に裏切り(時には従い)ながら新たな領域を目指すことができてきており、それは全く明確な作業ととなりつつあった。この態度は、2009年当初、不確定な部分に飲み込まれるような感覚で作曲に向っていた態度とは明らかに異なっていたように思う。
そうした語法の明瞭化は、時には楽曲の完成度を向上させもしたが、作曲態度をやや慎重にさせる部分もあった。
そうしたことから、試験的にではあるが、《11月》からは新たなルールを追加することになった。
(注※1)福島からの提案だったが、これにより非自己からの決定要素が拡大したことになる。

個人的にはひと通り聴いて印象に残っているのは《1月》、《3月》、《8月》、《12月》だった。 《1月》と《12月》は一見全く様相は違うけれど、個人的な心境としては同じものを持って臨んでいた。《1月》では実現していない可能性のひとつが、よりよい形で《12月》に集約されているともいえる。

《3月》は導入部が非常に美しい。

《8月》は最初から2人の思考の方向性が奇跡的に一致しており、終始ブレがなかった。これは《変容の対象》においては本当に珍しいことだといえる。二人とも普通は意識してあえて視点をブラすことを行い、それは《変容の対象》の作曲態度のひとつとなっていると思うが、この月だけはそこをぶらさず、進んだ先にさらに何が見えるのかに夢中になっていたように思う。

《12月》は事前に濱地さんより音組織の構成に濱地さんからの名前からの取られた音名を使用したとの連絡を受けていた。("hamaji junichi" において音名として使用できるローマ字を左より抜き出すという作業で、この場合は"h a a c h"が残る。)それを受けて、自分はどう答えるかという問いを続け、結局同様に"fukushima satoshi"より" f h a a h "より組織された応答を基本に使用した。こうした、純粋に音のみによる組織とは違う要素を意識的に用いた事は《変容の対象》シリーズでははじめての事だった。ひと月では到底完結できない密度の濃いやり取りとなった。

翌年2012年からは4年目の《変容の対象》が開始される。新たに追加されたルールもそのまま続行することになった。また、濱地さんからの提案で使用楽器をソプラノからアルト・サックスに変更する事になった。今後どのように進展していくか楽しみにしている。

(注※1)《11月》から導入された新たなルールは
「自分の書いた最後の小節の次の小節に、相手の使用できる音数のみを指定する。」というもので、互いの書く最新小節は相手から指定された音数に束縛されることになる。

2012年01月07-09日に記 福島諭

+ 濱地潤一より



《変容の対象》2011年度版 総括

3年目を迎えた福島諭さんとの共同作曲作品「変容の対象」も無事3年目を終えた。それにともない2011年度の今作品の総括を書く。

1月は福島さんの動機から。本来は2小節目、3小節目と作品は続いていくが今月は1小節目でfineとなった。1小節で必要充分な条件を満たせたというより、そこから1歩も踏み出し得ないようなそんな判断だったように記憶していて、福島さんに書いてから判断を仰いだ。結果的には福島さんもここでfineとし、1月は終止したが、今聴き返すと「一歩も踏み出し得ない」というよりは、きちんと完結しているように思う。時間の経過がそうさせるのではなく、おそらく、当時は小節を順に進み、次の小節、また次の小節、、、とそれがひとつのイメージであって、始まってすぐ終わることへの反射的な拒否反応があったのかもしれない。それはいうまでもなく、先入観の一種でそれは案外強い作用を及ぼすのはそれは作曲に限らずそうで、ここは総括にあたり頭の隅においておかなくてはならないと思う。とはいえ、その先入観を結果的には排除したのだから音の組織そのものがこちらに語りかける力というものを改めて感じるし、また判断の決め手は最後は「音が握っている」という当然の姿を作曲する我々に示しているような、そんな作品である。

2月は個人的にはとても興味深い作品になった。特に動機からの不安定に躍るような組織に愛着すら感じる。展開部からの半音階の使用などもある効果をもたらしている。

3月は福島さんの動機。おそらく福島さんの想定とは違った「かたち」で作品はすすんでいったのではないだろうか、、、と想像する。他者がそれぞれ介入する作品故の「かたち」。時間が経過し、俯瞰して感じる事、思う事がある。

4月。中盤から舞曲のような様相を現すが唐突に終止が訪れる。もう少し先を見てみたかったような気も今はしているが、その時の判断が全て、、、ということも同時に思う。

5月は福島さんの動機が最後まで作品に機能し続けたように思う。イノセントな印象をもつ魅力的な音韻の造形は澄んだ何かをつれてくる。それに僕は従った。

6月は神秘的な響きから始まる。すぐにその神秘的な息吹は消え、はっきりとした輪郭のある組織に「変容」するが気付くとまた再び神秘的な息吹が息を吹き返す。

7月は1小節目の福島さんの動機に僕がどう応えるかが最大の焦点だった。提示された和声につき従うか、またはつき従わないにしてもどういったものが可能か。随分考えたように記憶している。そして書いたものがこれ。僕にはとても愛着のある組織になった。

8月は僕と福島さんにとっても思い出深い作品になった。書いている時は互いにとても密度の濃いやりとりを感じることが出来たと記憶している。それは音の組織によってもたらされた何か。眼前にある音の連なりがこちらに否応なく強いるものを感じ続けたひと月だった。2011年を象徴する作品のひとつ。

9月も福島さんの動機の印象が最後まで機能した作品になっていると感じる。5月ほどではないけれど、それは程度の差であり本質は変わらない。僕の組織はそれに従い、あるときは軽やかな遊戯のような組織を書いている。こういったことは変容では作品の成り立ち故当然日常的に起こるが、書いている時は細部に目を奪われて案外気付かないことも多い。作品が終止してはじめて俯瞰して気付くこともある。

10月は僕の動機。この1小節目は少し実験をしてみました。最初に1小節を書き、書きあがった音符の連なりは1小節すべてに書かれています。そして次に、その予め書かれてある音符の連なりのあるポイントからあるポイントを指定し、そのポイント間を全て休符に書き換えるというものです。つまり書かれていたはずのものが消えている、または消されているということです。その手法は別にカットアップの効果を狙っているとかではなく、あえて言葉にするなら譜面というある意味では「時間」を記した媒体のなかに「未出」の領域を意図的につくるといったような、それは音楽的に何かをもたらすかどうかはひとまず置いておいて、その「未出」の領域に他者の書いた時間が機能する。この場合は福島さんの書くピアノの音符ですが、そういった概念を持ち込むとどうなるかを試してみたかったのです。特に「変容の対象」は他者が相互に介入、干渉、協調、etc、する作品なので、その表出はあるいは独自の表白をするのではないかとも思ったのでした。音を確認すると案外、普通に時間は流れているかのようですが、僕には少し違って見えます。

11月僕の組織はJohn Coltraneへのオマージュ。1小節目からそう意図したわけではなく、途中からそう意識して組織し始めた。反省することをひとつあげるとすれば、終止はあそこでするべきではなかった。今月から新たな約束事が加わり、あの場所で僕が次の書き込み可能な音数を[0]と指示してfineをうながしてしまった。「新たに相手が記入する小節の使用可能な音数の指定」福島さんから提案された新たな約束事の機能をもう少し慎重に考えなければいけなかったと思うし、今振り返ってみてもあそこで[0]と書くのは間違いだったように思う。しかし、次の月ではその約束事の使い方もfineを想定する(しなくてはいけない)頃には幅をもって書き込めるように更新されたし、この月のfineがすんなりまとまっていたなら、そうはならず、12月、またはそれ以降にずれこんで問題を起こしていたはずだから何事も経験ということだろう。

12月はとても印象に残る作品になった。2011年をこれも象徴する作品。動機は僕からで、モチーフを組織するにあたって概念をしのばせている。hamaji junichiと僕の名前を表記する。その中で音の名前に使われている語を取り出すと順にhaachとなる。hはシの音。aはラの音。cはドの音。このhaachという音の並びをモチーフに動機を書き始めています。これがしのばせた概念。(こういった手法はバッハにも見られることを付記しておく)その音のモチーフのヴァリエーションで1小節目を形成しています。それを受け、福島さんも自身の名前を使い1小節目のピアノの組織を構成し応えています。予めこのしのばせた概念は福島さんと共有することが必要と思い、お知らせしました。「変容の対象」では時としてはそういったことが邪魔になるので互いに組織に関する説明をすることは基本的にしません。ですがこれは例外的に必要だと感じたので共有しました。2小節目以降から徐々に曲の楽想が大きくなっていきました。月の半ばあたりから「これは今月で終わるかな、、、」という危惧が微かに頭にのぼり、後半につれてますますその思いは強くなりました。告白すると10小節目から11小節目にかけて僕はその大きな楽想の流れを分断しなければならなかった。それが純粋にこの楽曲の欲する行為だったかは今となっては神のみぞ知るようなものですが「変容の対象」がひと月で曲を終わらせる(未完という可能性も含めて)思想をもっている以上僕はそうする決断を迷いながら為した。その結果11小節目は個人的には愛着のあるものになったけれど、流れから言えばそれはちょっとクレイジーな組織でもあり、そのままもし、時間が2ヶ月か、3ヶ月あれば、「ああはしなかっただろう」ということも含めて強い印象を残しています。つまりそれは「変容の対象」という作品が3年目を経験し得たことによってより大きな楽想をもつ条件が揃ってきたことに他ならず、4年目はどんなことが起こるのかある示唆を含んだような気配すらします。

最後に1月の作品と12月の作品の聴取感の近親性についても言及しておきます。福島さんもそれを感じたと言っていました。「変容の対象」は副題に12組曲とあって、その思想も内包しているのですが、この2作品の近親性は12組曲のなかで機能しているように感じられますし、それがたとえ「神の見えざる手」といったような類いのものであったとしてもそれでも僕は何かをもたらしているように思えます。この近親性に関しては「変容の対象」がはじまった年の作品から度々起こっている現象だということも付記しておきたいと思います。

第1回目記入日2012年1月4日。
第2回目記入日2012年1月11日。
第3回目記入日2012年1月25日。


濱地潤一